よけーなもんはとらげときねー

岡山に住む20代のミニマムな生活を目指す男の暇つぶし。

糊を買い忘れる日々

 仕事から帰ると、郵便受けの中に保険会社からの手紙が届いていた。

 部屋に入り、荷物とともに封筒をそこらへんに放り投げる。布団に飛び込んでから「あぁ書かなきゃ」と思うが体が動かない。

 この手紙には心当たりがあった。以前仕事中に電話がかかってきた。言葉の合間に「えー」と挟む吐息がうるさい中年の男からだった。

「えー、お忙しいところすみません。えー、書類と、えー・・返信用封筒を同封しますので、えー、記入する欄には、えー、印をしておきますので、えー、記入後、えー、返信用封筒で、えー、返送してください」

 たしかこんな内容だった。もうその男の5秒に1度は言う「えー」と電話越しに吹きかけてくる吐息の音がすごく耳障りでそのことだけしっかりと覚えている。

意を決して布団から起き上がると、おりゃ!っと封筒を破いて中の書類と返信用封筒を取り出した。こういうことは面倒くさがらずにすぐにやってしまったほうが良い事を僕は知っている。テキパキと書類に記入を終え、さぁ残すは返信用封筒にご所望の書類を封入するだけだ、と封をしようとすると、テープがない。

 最近の封筒には両面テープのようなものがついていて、表面の紙を剥がすと封が出来るという便利な機能、いや、ジャパニーズ心遣いがついている。しかしこの封筒には、その心遣いがついていなかった。

 これはまずい。早く封をしてしまわなれば面倒くさがりな僕はすぐに拗ねて「もうやめた」と言って寝てしまうに違いない。我が家に糊なんてものがあったか、と筆箱や書類関係を入れている箱を探すが見当たらない。糊の代わりにずっと探していた近所のゴミ回収日表が出てきたが、今はどうでもいい。糊だ。糊。

 しばらく探したがそもそも僕は糊を持っていないことを思い出した。以前持っていたものは使い切って捨ててしまって、糊なんて地味なアイテムは仕事くらいでしか使わないから買わなくていいや、と考えてから買った覚えがない。

 糊を買いにいかなければならないが、今から外に出るのも面倒くさいし、「明日仕事帰りに買えばいいか」と諦めて明日に託す。

 翌日、仕事から帰るとクレジットカードの明細書が届いていた。全然見たくないので、床に放り投げ、スーツから私服に着替えてから晩ご飯を買いにいった。

 その日はナポリタンが食べたい気分だった。絶対にナポリタンを食べてやろう、ついでにジュースも買って、疲れた自分にご褒美だ、と意気揚々とコンビニの弁当コーナーにいくと、ナポリタンがない。

 「あ・・」 

 すごくショックだった。思わず目を見開いて行動停止してしまった。

 まぁ仕方ない、と違うものを選び、レジでお金を払って家に帰る。ふと、机の上に大事そうに置かれている返信用封筒に目が止まる。

 「あ・・」

 地味にショックだった。コンビニで糊を買う予定をすっかり忘れていた。いや、きっとナポリタンのせいだ。ナポリタンがないことのショックでうっかり忘れてしまったのだ。きっとそうだ。このナポリタンめ!なんでそんなに美味しいんだ!

 まぁ仕方ない、と今から買いに行くのも面倒くさいし、「明日は休みだから明日買えばいいや」と決意する。

 この次の日、糊を買い忘れたことは言うまでもない。

 結局書類が届いてから1週間も糊を買わずに忘れ続けていた。アホを通り越して逆に怖い。

 一昨日、コンビニで昼飯を買っているとき、ふいに「糊買わなきゃ」と思い出した。なんていいタイミングに思い出したんだ。よくやった!、とニヤニヤしながら文房具コーナーに向かう。

 さぁ糊を買うぞ、糊、糊、・・あれ?・・液体糊しかなかった。すごくどうでもいいこだわりだが、糊はどうせ買うならスティック糊が好きなのだ。特に青いやつ。塗った場所が青くなって目でみてわかるという画期的なあれだ。スティック糊がないなら買うのをやめるか、ミニマリストとして自分のこだわりのある物を買わなくちゃね、と諦めようとしたのだが、自分の中の天使が囁く。

「今買わないと次はいつ思い出すかわからないよ?もしかしたら来週、来月になるかも?」

 そうだ、そのとおりだ。今買わないと!

「おい、液体糊なんてくさいし、だせーもん買うんじゃねぇよ。スティック糊なら青色のやつがあるぜ?いい匂いもするぜ?」

 と、悪魔の囁きも聞こえる。そうだ、そのとおりだ。

 いや、ダメだ。やはり今買わないと!、意を決め、液体糊をついに購入した。

 結局家に帰ってすぐに使わずに数時間放置していたのだが、ようやく返信用封筒の開いた口を塞ぐことが出来、無事ポストに投函できたのである。

 この達成感は高校のときに自分が演じた劇で無事に最期まで演じ切れたときの達成感と似ていた。まさかこんなことであの達成感を味わうことになるとは。

 液体糊ってくさいのだろうか?この記事を書いていて、ふと思った。小学校のとき、なぜか液体糊=鼻くそのにおいという固定概念を持っていた。あの頃は実際にそう思っていた気がして、今でも液体糊はくさいと思い込んでいる。しかしあの頃から10年以上経過し、まだまだ若輩ながら一応成人して部下も持っている。もしかしたら液体糊のにおいの感じ方にも違いが生まれているかもしれない。

 役目を果たした液体糊がデスクに鎮座している。失礼ながらにおいを嗅がせていただく。くんくん。くんくん。それほどくさくない。どちらかというといい香りだ。

おばあちゃんがつけているファンデーションを少しねちっこくした匂いだ。しかも今気づいたのだが、液体糊の容器にくびれが生まれているではないか。この10年で僕の知らないところでは、液体糊はくびれのあるエロティシズムな熟女になっていた。

 時の流れとは恐ろしくもあり、楽しみでもある。僕らはただただ日々の生活や環境の変化を時の流れに従いながら過ごすだけなのだ、としみじみ感じた。

 とにかく糊を買い忘れる1週間は、あっと言う間だった、という話。